2019年6月、元農水省事務次官の熊沢英昭氏が、自分の息子の英一郎を殺害した事件。
2019年12月16日、判決が言い渡された。
懲役6年の実刑判決。
殺人事件では異例の保釈も認められた。
自分の息子がもし将来こうなったらと思うと、なんとも言えない。
— 一束(ひとたば)@クラフター&ブロガー (@1taba2) December 20, 2019
母を「愚母」と罵倒、父は「もう殺すしかない」――元農水次官が“息子殺し”という地獄に至る「修羅の18カ月」 #熊沢英昭 #週刊文春 #文春オンライン https://t.co/Vske8YzeA6
「息子に殺されると思った」
直前には、川崎市登戸通り魔事件があり、それに影響された面も、あったと思われる。
世間の大半は、彼に同情したと思う。
息子が原因で娘は自殺。
妻は鬱病。
家庭内暴力。
コミュニケーションが取れなくなった息子と向き合うためにTwitterをはじめ、身の上隠してTwitterでコミュニケーションをとる。
そんな中で起きた事件。
僕が熊沢英昭氏だったら、どうしていただろうか?
僕にも息子がいる。
多分、発達障害持ち。
どこか空気が読めてないところがあって、イマイチ友達とコミュニケーションが取れてないようにみえる。
熊沢英昭氏の息子の英一郎も、発達障害だったと言われてる。
発達障害ってひとくくりにされてしまうと、ちょっと違うとは思うが、少し共通点があるように思えてしまう。
そんな彼らの育て方が、凄く重要だと強く思った。
発達障害だからとか、精神疾患があったとか、色々あるかも知れないけれど、英一郎は不幸だった面があったかも知れない。
恐らくだけど、小さい時に彼自身を肯定してくれる人は、あまりいなかったと思う。
発達障害ってのは、得てして否定的な扱いをされやすい。
子供だから未熟なのは当たり前だ。
そして未熟な人間は否定されやすい。
「そんな事もできないのか?」
「なんで出来ないんだ?」
子供から子供なら、それはいじめとなり、大人から大人だと、ハラスメントになる。
肯定されない(しない)という、いわゆるモラハラ。
大人になれば、それがモラハラって事がわかるかも知れないが、子供にモラハラは到底分からないだろう。
大人から子供へのモラハラによって、彼が少しひねくれた人間に育ってしまったのではないかと思う。
そうしたストレスが、怒りや恨みといった形で、他人や自分自身を傷つけていったのだろう。
もし彼が肯定されて(別に全てを肯定するわけではないが)育ったのであれば、もう少しまともな人生を送っていたかも知れない。
僕自身も、父親からはモラハラに近い事を言われて育ってきた。
「ダメだなぁ」
と、よく言われた。
それがデリカシーのない言葉である事は、分かっているけれど、言われた方はダメージを受ける。
母親がフォローを入れることで、ダメージが和らぐけれど、ダメージは蓄積され、それは小さな傷痕として僕の中に残り続けた。
チクチクと針で刺されたような痛みの中で、僕は家が嫌で嫌で仕方がなかった。
そして僕の中では、”家を出る“事が、目標になっていた。
その目標は、大学進学という形で簡単に達成される事になる。それと同時に、簡単に目標を見失っていた。
とりあえず、目の前に出される学校の課題はそれなりにこなしたけれど、何かやりたい事があるわけでもなく、ただ時間は過ぎて行ってしまった。
何となく、日々を過ごしていたんだ。
そして周りが就職するから就職した。
サラリーマンになってからも、ほぼ同じ。
目の前の課題をこなす日々。
そして今に至る。
僕は英一郎にはならなかったけれど、何となく英一郎の気持ちが分かる部分がある。
親に対しての不満。
英一郎の行動は、どこか親を困らせようとしていたのかも知れない。
父は僕ではないし、僕は僕である。
英一郎の理解者がいれば、結果は違っていたと思う。
今回の事件は、要因は英一郎にあることは間違い無いだろう。
けど、英一郎が危険因子になってしまった要因は、英昭氏をはじめとした家族にあるだろう。
家族として、一人の人間として、肯定してあげるべきだったのだろう。
発達障害は、最近聞くようになった言葉だから、昔であれば理解など到底されない時代だっただろうから、それも英一郎には不幸だったのかも知れない。
僕の息子も、もしかすると学校でも否定される事があるのかも知れない。
そんな時、僕は彼を肯定してあげなければいけないであろう。
否定するのは簡単だ。
肯定するのは意外と難しい。
けど、人は肯定されるから成長すると思っている。
ポールさんでは無いけれど、自己肯定感を高くして生活すれば世の中変わるはずなんだから。
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